APS3:ミューの章


 リーク城。レイン王をはじめとした王族達が、ヤータの夏離宮へ旅立ってから数日経った寝苦しい夏の夜。主のいない城の一室に、小さな固定火(フォイエ)が点(とも)る。

 部屋の主は部屋の扉をほんの少し開いて、外を盗み見る。誰もいない。気配も感じられない。

 目に頼らずとも、城内の監視システムにアクセスすれば、必要な情報が手に入れられることは分かっているはずなのに、周囲に誰もいないということは分かっているはずなのに、自分自身の目で確認しないと、どうも落ち着かない。

 気が済むまであたりを見回してから、部屋に引っ込み扉を閉じる。

 一息ついて、ふと顔を上げると、大きな姿見に映し出された自分の姿が見えた。

 燃えるような紅に近い栗毛と、少し幼く見えなくもない顔。自慢できるほどではないが、自信を失う程でもないプロポーション。そして、その身体を包む紅の防護服(シールドスーツ)。

 鏡の前に立つと、左手を腰に当て、重心を軽くずらしてポーズを取ってみる。

 悪くない。いや、自慢しても良いくらい。

 姿見に映る、ニヤけた自分の顔に気が付いて、顔を赤らめる。

 いいじゃないの、こんな日があっても。たまには息抜きさせてもらわなきゃ。

 頭ではそう思っていても、身体は納得してくれない。

 今度こそ、思いっ切り羽を伸ばすんだ!そう決めた筈なのになかなか思い切りがつかない。時間だけが過ぎていく。

 時計を見る。もう深夜だ。レイン王をはじめとした王族達が家臣のほとんどを連れて夏離宮へ旅立っているとはいえ、朝になれば城内に残っている臣下や使用人たち起き出してしまう。そうなれば、変な騒ぎになりかねないし。

 でも、折角のチャンスを失う訳にはいかない……

 意を決して鏡台の前に立つ。

 髪の毛を纏め上げて、ピンで止め、防護服(シールドスーツ)に作りつけになっているチョーカーに添って指を這わせる。指先の微かな感覚から首の後ろあたりにある防護服(シールドスーツ)のマイクロスイッチを探り当て、反対の手に持ったピンで解除コードを打ち込む。

 第二の皮膚のように寸分の隙も無く全身を包んでいた紅の衣から、緩やかに緊張が失わた。

 チョーカーを首から外し、防護服(シールドスーツ)をゆっくりと脱ぐ。

 この前、防護服(これ)を脱いだのはいつだっただかしら?

 たしか、先王(ケイン)様と出会う直前?

 用意しておいた湯浴着に袖を通しながら考える。はっきり思い出せない。もしかしたら、はじめてなのかも?

 思い出す……思い出すって言えば、シーレンは、物事を……記憶を、どんな風に『覚えている』んだろう?

 分厚いカーテンの後ろに隠された階段を下りる。薄暗かった回廊に、熱の無い固定火(フォイエ)が一斉に点る。細長い、真っ白な回廊。失われし文明の遺跡、リーク城。失われた文明の遺産。私と同じ。

 ふと我に返った。溜息が漏れる。そんな事、どうでもいいじゃないの。

 今はともかく、お風呂!お風呂!

 小走りに回廊を抜けると、円形劇場のような景観が目に飛び込んできた。王族専用の巨大な湯殿だ。

 今までだって、入ろうと思えばいつでも入れただろうし、先王(ケイン)様もレイン様も、他の王族の人もそれを禁じられていた訳じゃないけど。

 巨大な浴槽から立ち上る湯気は、夜風の動きを目に見える形で教えてくれる。

 お目当ての風呂を前にして、またしばらく物思いに耽ってしまった。頭を振って気を取り直す。

 ええい!ままよ!

 思い切って、湯に飛び込む。

 どぼん!

 盛大な音と飛沫(しぶき)が飛んだ。

 自分でたてた音に驚いて、湯から半分だけ顔を出して周囲を伺う。大丈夫かなぁ?

 王族専用のなかばプライベートな湯殿である。肝心の王族たちがこの城に居ない上に、深夜となれば、たとえ側女達と言えど、このささやかな湯殿の異変に気がつくはずもない。

 大きなため息をついて、今度こそ本当にリラックスする。

 肌がしびれるくらいの熱めの湯に口元までどっぷりと浸かる。半ば虚脱したような状態。

 やがて湯に晒された有機皮膜は、やがてほんのりと上気してきた。

 手を見てみる。指先が僅かにふやけている。まるで、いや、まるっきり人間である。

 人でないものに、これだけの人らしさを与えるなんて、何か意味があるのかしら?

 鋼鉄のような強靭さと絹みたいなしなやかさを、数百年も保ち続けるこの有機皮膜を作らなきゃいけなかった理由って、何なのかしら?

 この艶やかさを失わない、枝毛にもなることのない、そして決して伸びることのない髪の毛にしても……どうしてなのかしら?

 そう、こう考える私自身も……

 考えを巡らすうちに、風呂の熱さが頭の中にまで浸透してきた。何を考えているのかハッキリしない。

 深くて、一番熱い湯舟からのろのろと上がり、特別に調合されたハーブがたっぷりと使われている薬湯に入る。浅く滑らかな湯舟に寝転ぶ。

 二千年前から、ひとときも絶えることなく城を監視し続けている古代のシステムは、薬湯の一つに人の寝転んだ事を確認すると、湯殿のサービスシステムにその情報を提供した。

 湯殿を管轄するサービスシステムは、監視機構からの情報と自らが持っているセンサからのそれを元に、対象となる人間の表層温度を確かめ、湯温を適正に調整し、湯舟の底に備えられた微細なバルブから、薬湯の撹拌と全身マッサージのための発泡を開始した。

 全身があっと言う間に泡に包まれる。溶けるようにまどろんでいく。遠い遠い昔の……あの頃の記憶が蘇る。

 ずっと昔の……そう、ずっと昔の……優しく悲しげな微笑みを浮かべたあの人との……

 数瞬の間に思えた。しかし、湯殿の天井に開けた巨大な採光窓は夜闇を追い払う光の使徒がやがて現れるであろう事を示していた。

 湯面からわき上がる湯気は今やねっとりとした霧のごとき様相を呈し、巨大な湯殿は雲海の中に沈んだかともおもえる程。

 時間の経過は、あまりに明らかだった。

 しまった!眠っちゃったんだ!

 湯当たり(オーバーヒート)寸前でぐらぐらする頭を振って湯船から飛び出した。

 と、頭部保護のために大幅な冷却シフトを取っていた全身の冷却系は、本体のこのあまりに突然のモード変更と全身の駆動に対応できず……とどのつまり、立ちくらみを起こし、湯舟の傍にあったサウナのための水風呂に頭から突っ込んだ。

 普通の人間なら、心臓マヒでも起こしかねない所だが、体内の冷却系管理システムはこの急速強制冷却を歓迎した。

 しかし、光回路水晶(クリスタル)は、予想だにしなかった、この『水の冷たさ』という衝撃にも近い情報の奔流を、『パーソナリティ』保護機構で瀘し取ることができなかった。冷水の温度は、システムがミューに危機をもたらすと判断するに取るに足りぬ、些細な環境の変化だったのである。

 冷水の生の冷たさが、『パーソナリティ』を貫いた。決して触れられることのないように、何人(なんびと)たりとも近寄ることのできぬように、自らがその記憶を持っていたことすら故意に忘れていた遠い記憶がそこにはあった。

 ヒューリの北の湖の底に眠っていた記憶が雪崩の如く蘇る。

 暗く冷たい湖底、何故自らの身を湖の奥底に沈めたのか……

 自らの命を絶つことのできないドロイドが、せめて人らしい抵抗をしたかったのか……

 あの子を失わなければ……

 あの人とあの子を失わなければ……

 蘇らされる事もなく、ずっとあのままでいられたら、この思いを誰にも触れさせることなくそのまま朽ちていけたのに……

 一歩、もう一歩。

 よろよろと前に進む。

 目の前で不安定な二足歩行を行う人間の幼生体を注視する。

 数歩も進まぬうちに幼生体はバランスを崩す。

 何処からともなく出てきた両の腕(かいな)が幼生体を支え、危険度の高い頭部からの転倒を阻止する。

 両腕の中でもがく赤ん坊は、もう一度二足歩行の練習をさせろと要求する。

「あ〜」

 言語以前の、感情そのものの「ことば」が彼女の心を捉える。

「ほらほら、あんよは上手ね〜」

 思わず抱きあげて頬擦りをするが、歩き出すことで新しい世界を見いださんとする当の赤ん坊の方は、この心からの愛情表現をいささか疎ましく思っているかのように見える。

「ほら、もう一度よ」

 ゆっくりと地面に下ろされた赤ん坊は両手を前につきだし、目標も定かでないままに、ただ進むことを目的にふらふらとよろめき歩く。

 数歩進んだところで突然バランスを崩した。彼女は慌てて赤ん坊に手を差し出したが今度は間に合わない。赤ん坊は顔から広場の芝生へと突っ込んだ。

 顔を突っ伏したまま、赤ん坊は叫び声に近い泣き声を上げる。

「よしよし、転んじゃったの?そ〜なの。痛かったの。」

 彼女はもう一度赤ん坊を抱き上げ、そのまま抱え上げる。

 この世の不平等を泣いて訴える赤ん坊をあやしていると、広場の向こうの方から呼ぶ声が聞こえる。

 あの人がお昼を買って戻ってきたのだ。

「…………!御弁当、買ってきたよ!お昼にしよう!」

 あの人が、私の名前を呼んでいる。でも、私の名前は?あの人の名前は?……この子の名前は?

 フラッシュバック。

 全てが光芒の中で失われる。

 彼女もまた、光の中に溶け込んでいく。

 霧が晴れた。

 走っている。

 子供を抱えて走っている。何で走らなきゃいけないんだろう?

 ああ、追われているからね。

 でも、誰に追われているの?どうして追われなきゃいけないのかしら?

 分からない……思い出せない……。

 瓦礫を避けてかつてデパートだった建物の入り口に向かう。そこであの人と待ち合わせているから。

 目の前に奇跡的に割れずに残っていたショーウィンドウが現れる。異様な形相をした女が走ってくるのが見えた。

 背筋に悪寒が走る。

 しまった、追い付かれた?!

 もう何年も『力』を使ってはいない、もしかしたら、もうなくなっちゃったかもしれない。

 それでいい、その方が良いと思ったこともあるけど、でも今はこの子とあの人を護る力が欲しい!

 自分の体内に、力強い、血流のごとき『力』を感じる。失われてはいない!大丈夫、護れる!

 気を練り、術を形にする。

 私があそこにたどり着くまで時間が稼げれば、あとは何とかなる。

 振り返り様に炎(フォイエ)を叩きつける。と、自分の後ろに誰もいないことに気が付く。

 目標を見失って術は意味を成さなくなる。それは瓦礫の上で拡散して消えた。

 これは?これは一体?

 もう一度ショーウィンドウを見る。かつては美しかったであろう金色の髪を埃に塗れさせ、これ以上ない程に振り乱したその女性は、その胸に幼子を抱えてガラスの中で呆然として立ちすくんでいる。

 抱きかかえた子供が泣く声だけが聞こえる。

 私?

 後ずさりする。ガラスにうつった女性も後ずさりする。

「あ……ああ?……」

 私は……私は!?

 ガラスにうつった自分の姿から逃げ出すように走り出す。

 割れたガラスを避け、瓦礫を越え、崩れかけた壁を蹴倒して進む。

 周囲の風景は、崩れ落ちる瓦礫のごとく闇へと帰す。

 口を開けた深淵は更に深く、荒れ狂っている。

 そして気が付くと、私の目の前には若い頃のあの人に良く似た青い髪の青年がいた。

 彼は逃げてはいなかった。あの人と同じように。困難を打ち破る覇気があった。

 真正面からしか挑めないという、若さゆえの頑固さはあったけど……でも、逃げてはいなかった。

 だから、私も逃げるのはやめた。

 今度こそ、今度こそ、自分から逃げないように、自分が守るべきものを失わないように。

 絶対に勝つんだ。

 他の誰でもない、自分自身に……

 晴天の雷の如く突然蘇った記憶は、そしてガラス細工のように砕け散り、後には取り繕われた正気が残された。

 呆然として水に漂う。

 水風呂からいきおいよく飛び出して、水にさらされ引き締まった両頬を平手で数回叩く。

 何をどう思い出したのか思い出せなかったが、それを思い出そうと努力する程の余裕もなかった。

 大急ぎで湯殿から飛び出し、早足で部屋に戻る。

 あわてても仕方がないのは分かっていても、急ぎ足になるのは何故だろう?

 部屋に戻ると、防護服(シールドスーツ)を慌てて着込み、チョーカーに装着コードを打ち込む。

 防護服(シールドスーツ)は装着面から空気を排出し、再び第二の皮膚のごとく全身を包み込む。

 ピンを外して、たくし上げていた髪の毛を降ろす。

 櫛は後で通せばいいや。

 この部屋に誰かがいたという証拠を無くすために部屋の中をばたばたと片づけ、いざ退散しようとしたその瞬間、鏡台の前に赤い紅が置いてあるのを見つけた。

 数瞬の間、どうしたものかと悩みに悩んだ後、意を決して鏡台の前に座った。

 専用の紅筆を取り出して、自分の唇にそっと紅を引く。

 さあ、こうなればもう用はない。象嵌細工の施された化粧道具箱の中に紅やら筆やらをガチャガチャ突っ込み、蓋が閉じるように何とか工面を付けると、脱兎のごとく部屋から飛び出した。

 あっと言う間に、自分の部屋に戻ると、カーテンを引き鍵を下ろしてベッドに座る。

 全身が入浴による加熱がシステムに与えた影響を調査するためにメンテナンス睡眠に入ることを要求していてきた。

 それもいいでしょう。たまのお休みなんだから。

 ミューはベッドにもぐり込む。

 管理システムがメンテナンスのために光回路水晶(クリスタル)のそのほとんどを低活動モードに移行させ、ミューは『眠り』にはいった。

 その瞬間、ミューの目から涙がこぼれた。流したことも思い出せぬ涙を。しかし、薄く紅を引かれた唇には、微かな笑みがあった。

 その後しばらく、『朝寝をするドロイド』として城内に名を馳せるミューの、その深い眠りの中で見たものは何だったか知るものは、誰もいない。