APS3:ルラキルの章


想う者が一人

信じる者が一人

支える者が一人

頼る者が一人

讃える者が一人

愛する者が一人

みんなあわせて たったひとり……

 

 

 ルラキルはがっくりと膝をつくと、そのまま前のめりに倒れこんだ。うつ伏せとなって、大きく喘ぎながらもなお気を練ろうとする。しかし、術(グラブド)は実体を成さずそのまま散ってゆく。歯を食いしばり、末端神経の隅々まで走る激しい痛みを無視して両腕をふんばって起き上がる。柱に寄り掛かり、なんとか立ち上がったものの、今度は膝から力が抜けて、そのまま尻餅をついてしまった。素っ頓狂、というか、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で、しばらく茫然としていたルラキルは、やがて自らの敗北を悟った。

 彼は静かに笑い出した。

 「闇の秩序を司りし者としては、あまりに無様(ぶざま)な最後だな……そうは思わんか?」

 全身の軋みは既に燃えるような感覚に取って代わられていた。ルラキルは思い直したかのように口を開く。

 「……いや、死んだ妻や子供への想いも断ち切れずに闇に魂を売った男の末路なぞ、所詮はこんなものなのかも知れん。」

 全身から力が失われていった。うなだれた首は思いの外重く、僅かばかり、なんとか首を巡らすと、ぼやけた視界の上にフインたちの足が見えた。痛みはゆっくりと失われつつあった。これで終わりだということが分かる。休息は、もはや彼の体を蝕みつつある死への妨げにはなり得なかった。

 「遠慮はいらんぞ。止めをさすがいい。」

 しかし、僅かな鞘走りの音が聞こえ、それを合図にフイン達が武器を納める気配が続いた。ルラキルは苦笑した。己が死ぬ間際に、最後に聞いた音が、敵が己に情けをかけて武器を納める音だったとは。鞘走りの音を最後にして、もう何も聞こえなくなったのだ。

 闇の王と呼ばれた男の最後というものは、ここまで無様で情けないものであろうか。

 ルラキルはふと思い出す。我が弟が常々口に出していた言葉を。『殺してはならぬ』と……

 敵にすら情けをかけられるのか、そう思うといたたまれなくなってきた。俺には止めをさす価値も無いというのか?。諦めが、怒りに、悔しさに、無念に変わる。手をくだしもせず、ただ自らの命の潰えるを待つ彼らへの。自由の利かぬ自らの体への。

 「お前たちは、」

 彼はつぶやいた。が、その声がフインたちに伝わっているかは、分からなかった。

 「お前たちは、残酷だ……いつもそうだ…………夢も希望も……間際に…それを取り戻そうとする……光を高く掲げて…我こそは正義と言わんばかりに………………お前たちは!」

 大きく息をつく。自分の話す声が聞こえない。果たして、自分は話しているのであろうか?それとも話しているつもりになっているだけであろうか。座らない首を柱に預け、フインたちの方を見据えた。彼らはルラキルを凝視していた。沈黙のパントマイムの如く、身動ぎ(みじろぎ)もせずに、そこに佇んでいる。

 まるで道化師じゃないか。そう思った。が、ふと気がついた。道化師は、俺か?

 「お前たちのもたらす混沌こそが、この世に厄災と悲しみを振りまくとは思わんのか?…………」

 つぶやきは尻すぼみに小さくなる。そう思っていたのは、俺だけか?

 だとしたら、俺は正に道化師じゃないか。千年の時を越えて蘇り、破壊と殺戮を繰返し。何もなくなれば、全てが失われてしまえば、もうそれ以上誰も悲しまない。たとえその道が血塗られていたとしても、あえて『秩序の狂信者』たろうと…。無の秩序。無の平穏を求めようと。そう信じていた俺は……。

 無明。

 千年の無明。

 無為。

 千年の無為。

 何の意味もない。

 何の意味も成さない…………。

 俺が、俺こそが、この世に混沌を生み出していたのか?

 涙が、両頬を濡らす。視界が潤む。とめどなく流れる。胸が締め付けられる。歯を食いしばる。拳を握り締める。荒い息は、いつしか叫びに変わる。それは、悲しみの絶叫のようでもあり、戦(いくさ)を告げる雄叫びのようでもあった。

 ルラキルはやがて喉の奥から鳴咽を追い出し、暫しの沈黙の後、静かに語り出す。

 「……お前たちは……お前たちは一体、何を守ろうというのだ?……」

 返事はなかった。いや、あったのかもしれない。しかし、その声が彼に聞こえるはずもない。自分の最後の失敗に気がつくと、ルラキルは、もう一度小さく笑う。

 「己の信じる道を進むがよい……ここを行けば、我が崇めし邪悪が潜んでいよう。それを滅して、お前達が信じる道を進むがよかろう。」

 僅かに残った最後の気力を両腿に注ぎ込んで立ち上がる。心臓は再び激しく混乱の鼓動を刻み、肺は狂おしく酸素を求め、肉体は最後の過酷な消耗を拒否しようとする。

 「そして、その果てに何があるのか……」

 空気とはここまで重苦しく体にまとわりつくものだったのだろうか。よろめき、けつまづきながら、まるで泥の中を進むがごとくに歩き、倒れ込むようにして玉座へと身を沈める。

 「しっかりと見極めるがよい…………」

 ゆっくり、ゆっくりと、感覚の一つ一つが肉体を離れ、無窮の亜空へと立ち帰ってゆく。苦痛もなく、音もなく…長い長い間……そう、千年もの間忘れていた穏やかで静かな………そこに待つのは……

 ルラキルは玉座に深く腰掛けたまま首をもたげ、何もない空間へ大きく腕を広げて、何かを誘(いざな)った。なくしていた、大切なものを見つけたかのように。そして…………

 

 

 『お前たちは……嫌いだ………救われるべくもない者すら救い出して………………』

 フインは振り返って後ろを見た。はっきりと聞き取ることは出来なかったが、ルラキルの声を聞いたような気がした。しかし、ミューたちはフインの聞いた声に気づく様子もなく先へと進んで行く。空耳だったのであろうか。ルラキルは玉座から動いた様子もない。千年の時を越えてこの世界に災いをもたらさんとした者の魂も、既にこの世にない。

 無明と混沌の王は、己が命の潰える直前に何を見たのであろうか。フインは剣を大きく振ると、それを真横にかざし、ルラキルに剣士の礼を送る。黙祷。

 呼ぶ声が聞こえる。フインは剣を納めると踵を返し、ミュー達が待つ隠された神殿の入口へと向かう。

 再びルラキルの声を聞いた。今度は、その言葉の最後まで。

 フインは振り返らなかった。