APS3:サイレンの章


 記憶領域が、『容量の限界』と言う警告を最初に発してから五百年余りが経過した事を、彼の内部時計(システム・クロック)は示していた。

 容量の不足。かつて彼を生み出した技術者は、この様な問題が実際に発生するとは夢にも思わなかったであろう。事実、数千兆ギガバイトという、ほとんど無限にも等しい記憶領域を持つ彼自身が、当初の数百年間この問題をまったくナンセンスなものとして扱っていた。しかし、彼自身が不可視であるほどの深いシステム領域からの突然の警告は、遠い昔に人間を捨て、感情を棄てた彼以上に冷酷なものであった。

 『お前はこれ以上ものを覚えることは出来ない。想い出を捨てろ。』

 それ以来、彼は一定期間毎に自らの記憶の全てを走査することにした。彼が、彼自身であることを証明する多くの想い出に『重要度』という評価基準が付加される。そして、光回路水晶(クリスタル)の奥にうずだかく積まれたささやかな宝物は、新たな記憶という玉石入り交じったガラクタを詰め込む場所を提供するために捨てられる。捨てなければならないものを捨てるのに躊躇しない。彼の記憶は薄れない、その瞬間そのままが記憶として残る。しかし、失われた記憶は二度と戻ることはない。覚えていたことすら忘れてしまう。彼には感傷(メランコリー)はなかった。

 サイレンは紫の月に封じされた当初、付きの探索を積極的に、且つ徹底的に行った。そして、月からの脱出手段がまったく失われており、自力脱出の可能性がきわめて低いことを確認すると、自らと仲間に必要なメンテナンスを行う最低限のものを残して、自らの同型であるサイレン系列を含む全てのドロイド達を機能中断(スリープ)状態にした。それは、サイレン自身の保全という観点から見れば、あまり都合がよいとは言えない選択であった。しかし、彼は、彼にとっての最重要課題を遂行するにあたっては、実に順当であると判断したのだ。

 すなわち、主(あるじ)オラキオを守護し、これに仇なすライアに与(くみ)するものを戦闘不能にすること、である。

 世代移民航宙艦『アリサ三世』号の軌道に比較的近いところに、ある球状星団が存在していた。そこは歳老いた星の墓場とも言うべき、重力と赤黒い巨星だけが支配する空間であった。ある時、一つの星が超新星と化した。内破したその星から吹き出した膨大な量のガスは、周囲のブラックホール・中性子星・白色矮星といった貪欲な重力の怪物によって、瞬く間にに食いちぎられ、はぎ取られた。彼らを取り巻く乱れた膠着円盤から因果の地平へと落ち込むガスは断末魔の叫び声をあげ、恐るべき高効率でなんの個性もないエネルギー塊、光子へと変貌させられてゆく。今やエントロピーに飲み込まれるを待つだけとなった彼らは、自らの怨恨を爆発的な電磁波バースト、宇宙線の塊として星団外の全空間へと向って撒き散らした。

 超新星の怨恨と共にアリサ三世号を襲った強烈な電磁波バーストは、その殆どが、船内の乗員を守るために設けられた磁場シールドに遮られ、アリサ三世号の周囲に壮大なオーロラを作り出しはしたが、艦体そのものに被害を与えることは出来なかった。また、青の月と紫の月が母艦に対して対象となる『衝』にあったその日、かつてのライアの軍師、セシルの公子ルーンの眠る青の月は母艦の影に隠れていた為に、運よく難を逃れた。しかし、その軌道の反対側に位置していた紫の月は、球状星団からの電磁波バーストの直撃を受け、更にアリサ三世号の管理システムが行った磁場シールドの一時的強化によって、バースト直撃のショックから復旧する間もなく母艦の磁場シールドという強烈な磁気に曝されることとなった。

 紫の月は大混乱に陥った。超新星とアリサ三世号のもたらした強烈な電磁波バーストは、ドロイド達の固体半導体回路(ソリッドステート)を灼き尽くし、僅かに遅れて到達した宇宙線とともに紫の月を時ならぬネオン光で照らし出し、光回路水晶(クリスタル)内部に蓄えられた記憶を量子力学的な乱数の羅列に変えた。多くのドロイドたちが倒れ、またサイレンとて、何の予告もなしに襲った宇宙線の洗礼から逃れる術はなかった。見えない雷(いかずち)が、彼の光回路水晶(クリスタル)を抉(えぐ)り、思考が瞬時に途絶えた。同時に全身のサーキットブレイカーが壮麗な火花を上げて吹き飛び、全て停止した。

 永遠とも思える沈黙が過ぎた後、サイレンは痙攣のような動作を幾度となく繰返し、やがてぎこちなく立ち上がった。設計者によって注意深く設計された予備システムや補償機構という強固な電子の鎧が、サイレンを電磁波という凶悪な(やいば)による完全なる破壊から守ったのだ。

 サイレンは、自らの全ての記憶と機能をチェックした。安全率は極めて落ちているとはいえ、一般的な行動に支障を起こすほどではなかった。だが、超新星の怨恨はサイレンの無傷であることを許しはしなかった。彼の断末魔は、サイレンに確かな傷跡を残していたのである。

 彼は、混乱しきった紫の月の補修と破損したドロイド達の回収を開始した。ところが、サイレンは自らの作業効率に異変が起こっていることを発見した。時間経過と共に作業効率が低下してゆくのだ。彼はすぐさま内部回路の精密検査を行った。しかし、異状を確認することはできなかった。サイレンは、検査結果に疑問を持った。はたして、光回路水晶検査機構は正常なのであろうか?。彼は、自らの認識に異常な関心を寄せた。この世に生み出されて初めての、自らへの疑問であった。

 彼に搭載されている光回路水晶(クリスタル)は、プログラムをも含めた記憶を内部配線そのものとして記録する。その点において、光回路水晶(クリスタル)は、太古の昔に、人の手によって生み出されたコンピューターの姿をそのまま規模拡大したものと言える。しかし、かつて人の手によってしか行われることを許されなかった記憶の最適化は、いまやシステム自身の手に委ねられている。一度でも記憶の走査・最適化が行われてしまえば、起動時にシステムに与えられたプログラムはもはや元のプログラムと同一であることはまずない。それが、ドロイドたちにある種の「個性」を与える原因となってはいた。しかし、今サイレンの内部で起こっている変化は、それを遥かに越えるものであった。

 サイレンは自らの記憶にも疑念を抱いた。紫の月の管理システムにアクセスを行い情報を確保し、自らの欠落した記憶の回復を試みた。しかし、全てのそれを復旧させるには至らなかった。サイレンのシステム領域が早急な記憶の復旧を急(せ)いた。サイレンは混乱した。こんな事は、今までに一度も起きたことはなかった。システムは自分(サイレン)の状況を認識していないのであろうか。復旧できない記憶がある事実を、システムは許可してくれないのである。異常な、極めて異常な事態であった。彼は、全記憶の走査と整理を行う事にした。そうすれば、「何とかなりそうな気がした」のである。

 記憶の整理を終えたサイレンは、自分自身がほとんど収拾のつかない混乱に陥っていることを発見した。自らにあってはならない、決して犯してはならない失敗を犯したことを確認するのが精一杯であった。彼は、自らに発生した異状事態に全ての注意力を注ぎ込み、記憶を整理する前に記憶の『重要度』を再確認することを怠ったのである。幸い、記憶には『重要度』に応じたバックアップが行われており、基本システム等の特に重要な記憶はシステム領域が自動的に復旧を行ったために事なきを得たが、サイレン自身の認識可能な記憶は更に混迷を増す事になった。彼は「焦った」。この問題は極めて緊急度が高く、また重要な問題であるにも関わらず、解決手段は自らの認識することを拒否したくなるようなミスによって永遠に失われたのである。彼は自分の行動が信じられなかった……「信じたくなかった。」

 サイレンは、混乱のあまりか、自らの記憶をもう一度走査した。一度、光回路水晶(クリスタル)から失われた情報は決して元に戻ることはない。しかし、サイレンは記憶走査を実行した。やはり情報は失われていた。システム領域からの矢のような記憶復旧の督促が、行動システムの一部に侵入(レイド)したかのように思える。行動が遅滞気味となり、次に優先すべき行動の選択がスムーズに行われない。絶望という感情は、この様なときに感じるものなのであろうと、サイレンは考えた。いくばくかの時が過ぎ、光回路水晶(クリスタル)の深部に走査が及んだとき、システムはそこにささやかな記憶の残滓を発見した。サイレンは実行中の全ての行動をまったく停止し、全力を挙げてこの記憶の残滓から元の記憶を再構成する作業に取り掛かった。サイレンは自らの行動に、初めて熱意を感じた。その瞬間には、サイレンは、ある重大な事実をまだ認識することが出来なかった。彼は、物事を完全に忘却することが不可能になっていたのである。

 紫の月の管理システムが、艦内に軌道変更の警告を発した。

 艦内で軌道変更に対する準備のために、慌ただしく立ち回る数体のドロイド達。艦内の奥の一室。数多くのバインダファイルやディスケットの山の中から、一人のドロイドがのっそりと立ち上がった。サイレンであった。彼はめんどくさそうな動作でモニタを確認し、のったりと船舷へ向かう。かつてあった行動の機敏さはまったく失われ、目だけが炯々と光っている。口の中でぼつりと何かつぶやく。軌道変更が終了するのを待って、船舷窓の防護スクリーンを開ける。

 そこには、余りに巨大な航宙艦が天空の星々を背に、悠然として浮かんでいた。サイレンは、その壮大な光景を前に、全身の関節を僅かばかり痙攣させた。やがて、彼はゆっくりと踵を返し、彼に仕えるドロイド達の待つドッキング・ベイへと向かう。主を捜しこれをまもるべく、ライアの民を討ち滅ぼすべく……