05/21
お題目:亜生命戦争異聞#5
ダンツ委員の部屋を辞した古池とローレクトだったが、そのまま研究室に帰る気にはなれず、自販機でコーヒーを買うと研究棟の外に出た。
秋も終わりに近い。研究棟の広い敷地に植えられた木々は既に葉を落とし、長く辛い冬に耐える準備を終えていた。
枝だけになった樹木と茶色い芝、誰も居ない敷地、そして彼方の雪化粧した山々という風景の中で、水を吹き上げ続ける噴水が寂しい。
そんな中、背後にある自家発電用の風車の影が、ぽつりぽつりと回り続けている。
二人してベンチに腰掛けると、コーヒーを飲んだ。
「寒いな。」ローレクトは、白衣の衿を引っ張って首筋に飛び込んでくる北風を避けようとしている。
「ああ。」
熱いコーヒーをすすりながら、古池が答えた。
ローレクトもコーヒーをすする。
晩秋の陽光と熱いコーヒーが、二人に僅かな暖を与えてくれていた。
「今朝のニュース見たか?」コーヒーを飲み干したローレクトが切り出した。
「見た。」
珍しく紙コップを握りつぶしたローレクトは、二杯目のコーヒーを買いに行くと言った。
古池のコーヒーはまだ半分以上残っていたが、ついでにもう一杯を頼む。
ローレクトはそのまま研究棟に入っていった。
今朝のニュース。
幾つかの事件、幾つかの紛争、幾つかの訴訟。胃の痛くなるような、そういった日常のニュースの中で、ローレクトがあえて古池に『見たか?』と聞いてくるような話題はひとつしかない。
北海油田の閉鎖だ。
今世紀中盤から始まった基幹エネルギーの石油から水素への大転換(一部の科学者や社会学者たちは、産業革命に準(なぞら)えてこれを『水素革命』と呼んでいたが、これが広く通用するためには、この大転換そのものが歴史と化す必要があった)は、社会全体に大きな衝撃を与えた。
前世紀末から緩やかに進行していた基幹エネルギーの転換が爆発的な勢いで進み始めたのは、皮肉にも地域紛争で用いられた細菌兵器が原因だった。
この細菌兵器、オイルイーターは、沿岸でのタンカーの石油流出事故などで用いられた食油細菌が元となっているが、兵器として改良が加えられた彼らは、旺盛な繁殖力と鉱物油分解能力を与えられ、しかも有酸素でも無酸素でも生存でき、鉱物油を分解し増殖を行うことができる。
何らかの原因で変異を起こしたのか、あるいは制御に失敗したのか、紛争地帯で実践に供されたオイルイーターは、最初の数カ月でまず当事者の間で用いられていたガソリンや軽油を燃料とするエンジンをガス欠にし、次に潤滑油として鉱物油を用いる様々な兵器・機械を使用不能に陥れた。
皮肉なことに、この地域の紛争はこれ以降ピタリと収まった。爆発的に増殖した細菌によって、油田の原油生産能力が大きくそぎ落とされ、その地域の利権が消滅してしまったのだ。
その後、オイルイーターは変異を繰り返しつつ各地の原油貯蔵施設や精製施設に広がり、蓄えられた石油はたちまちのうちにメタンやプロパンに分解された。世界は基幹エネルギーを石油から水素に転換せざるを得なくなったが、既に利権の原因となる石油そのものが失われていたため、転換は大した混乱もなく進行していった。
ジェット機や大型建機など、一部の大出力を必要とする内燃機関の燃料や潤滑油は植物性か、あるいは化学合成されたものが用いられるようになり、今や原油は、プラスチックや合成樹脂の原料とするために、限られた地域で生産されるだけになってしまった。
しかも、その油田も合成樹脂類が水素及び二酸化炭素から工業的に合成できるようになってきた現在では、過去の石炭の如く、単にコストパフォーマンスの悪いエネルギー源と見なされる様になりつつある。
そして、今掘削を続けている数少ない油田である北海油田が、今朝、三年後をメドに閉鎖されることが決定したというニュースが報じられた…
古池はカップの中に残るコーヒーを見た。
百数十年の歴史を誇る北海油田が閉鎖されるのは、エネルギーの転換が進んでいる象徴ではある。そういう観点から見れば、このニュースはここ数年で最も明るいものだと言っても良い。ローレクトの言いたかったこともそれだろう。
が、古池はいまは別のことを考えていた。
十年を待たず、世界から化石燃料の内燃機関が消滅し、二酸化炭素を大量に吐き出すガソリンエンジン、ディーゼルエンジン、あるいは石油を燃やす火力発電所、工場なども命運を共にした。
今世紀末、つまり現在までに五度は上昇するだろうと言われた地球温暖化は、基幹エネルギーの転換が進むに連れてその速度を鈍化させ、今では寒冷化が進みダンツ委員の言うとおり『氷河期』という言葉すらちらつき始めている。
兵器として使われた細菌が、結果的にとはいえ人類の危機を救い、そして今は別の危機の原因になろうとしている訳だ。
その皮肉に古池は笑った。
アヴァロンのテラフォーミングが成功したとして、果たしてそれが人類を救うことになり得るのか。
単に、この地球で無数に行われている、見当違いの間抜けな紛争を引き起こせる場所を提供するだけになってしまうのではないか。
そう言った疑念が沸き上がる。
古池は工学者であって、社会学者ではない。
しかし、人類がそういう事を続けかねない程度に愚かである可能性があることは知っていた。
更にもうひとつの疑念、あるいは危機感のようなものがあった。
古池はまた、分子生化学者であるローレクトが研究を進めている環境改良細菌などの事も、厳密に理解できている訳ではない。
しかし、何かが心の隅に引っかかっていた…遺伝子工学とは、生命工学とは、果たして今の人類に扱いきれるものなのだろうか。
蒸気機関の昔から、新しい技術が世に放たれる度に、その技術に対する様々な議論が沸き起こった。
あるものは石油化学のように、新たな主役にその座を譲り、あるものは核分裂ベースの原子力のように、様々な致命的事故を引き起こし、危険性を指摘されながら未だに使い続けられている。
遺伝子工学、生命工学は、はたしてどちらに属するものなのだろう。
古池は元来悲観論者ではないが、今日ダンツに見せられた『遺伝子爆弾(ジーンボム)』の被害者の写真は、相当に堪(こた)えた。
『君は人類が救えると思っているのか?もし、救えるとしても、人類にそれだけの価値があるとでも言うのか?』
昔読んだSF小説の悪役が、主人公に向かって言い放った台詞が思い起こされる…
「おーい、古池ぃ」
後ろからローレクトの声が聞こえた。ヤケに間が抜けている。
振り向いた古池の目に、両手に紙コップを持ったローレクトと…楊(ヤン)だ。
鬼気とも言うべき気迫が、楊(ヤン)の背中から陽炎のように立ち上っている。
「古池博士(せんせい)!」
慌てて立ち上がった古池は、小走りに二人の方に向かった。
「いやいや、わざわざ済まないな。楊(ヤン)。」
楊(ヤン)はローレクトから古池の分の紙コップをひったくるように受け取ると、書類の束と一緒に古池に突きつける。
「ダンツ委員の所から帰ってこないと思ったら、こんな所で油売っていたんですか!」
「あー。」安全装置の外れた助手から書類と紙コップを受け取った古池は、ローレクトの方に視線を使ったレーザー通信を試みる。
『ごまかせなかったのか?!』。
生化学者は一個の生命の個体内部の判断に基づいて視線を逸らし、全身からホルモンを分泌して応えた。
『すまーん。楊(ヤン)ちゃん、怖いんだよー。』
楊(ヤン)は二人の間に割って入った。
「ローレクト博士(せんせい)のせいにしようとしてもダメです!だいたい博士(せんせい)は…」
たまらず古池は走って逃げる。
「わかった、わかった!すまん、戻ります、読みます!」
「ごまかそうとしても、そうはいきませんよ、今日は色々言いたい事があります!博士(せんせい)ッ!待ってください!」
二人が走り去った後に残されたローレクトは、肩をすくめてため息をつく。
「…うーちの助手に爪の垢でも飲ませたいよ。」そう言って、コーヒーをすすった。
では、次回の更新をお楽しみに。
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