大ヒット作品「美少女戦士セーラームーン」シリーズのディレクターである幾原氏がその後、1997年に手掛けている「少女革命ウテナ」について考察する。

1.序文

 「ジオンは、あと10年は戦える」ではないが、「セーラームーン」の絶大なブームが約5年で収束しようとは思わなかった。いや、ある失敗さえ無ければ10年どころか20年モノだったに違いない。ブームとはそういうものだ。

2.世界を、革命する力

 これには二重の意味がある。即ち、作品中で言う不思議なパワー「ディオスの力」と、もう一つは現実で言う「変革を齎す(もたらす)エネルギー」の事だ。
 まず、作品世界から注目してみよう。この世界を革命する力は、作品の途中では決闘相手を負かす以外に何の役にも立たない。しかし、登場人物達は「永遠」を手に入れる為に必要なこの力を欲して止まない。そもそも、永遠な何かを欲する事自体が余り健全な精神ではないとも言えるかも知れない。永遠なものが本当に絶対的な永遠性を証明するには、端があってはならない。また、有限な時空しか認識できない環境に甘んじている者が永遠を入手したとしても、その永遠を認識することは不可能だ。科学的に言うとこうなってしまうのに、それでも劇中では絶大な説得力で話は展開する。「新世紀エヴァンゲリオン」でも使われた手法だが、不条理な設定を誤魔化すには先ずそれを逆に目立つくらい前面に押し出して、然る後、不必要なまでに細部に凝る事で覆い隠すと良い。今回はSFでは無いのでメカの凄さで押し切る事は出来ない。よって、登場人物の過去と因果関係を複雑化する事でそれを補っている。
 そうまでして取り上げた「世界を革命する力」とは、作中では最終的に明かされるのだろうか。一応、現段階では「各自による思い」か「恋」となるであろうキーワードがそこかしこに散りばめられている。

 では、現実世界ではどうだろうか。日本も戦後50年を経過し、安定による弊害が顕れている。公務員の数は増え、財政赤字は増え、若者が夢を実現化する道は減り、政治は老人の権力争いの場になってしまった。安定したまま沈むことを潔しとしないタイプの人間にとっては、この世界(日本社会)を革命する(変える)力(エネルギー)を欲するのは当然であり、現実にそれを入手するチャンスはほぼゼロに近い。それこそ、空に浮かぶ蜃気楼のような城にしか無いような感覚と言える。何故なら、世界を革命するのは個人では不可能だからだ。革命というのは常識や秩序を新たに入れ替える事であり、力で押し付けてしまうのはクーデターでしか無い。似たようであっても全然違うのは、歴史を見れば分かるだろう。

2.影絵劇団カシラ

 アニメに限らず、ソフト製作で予算や時間が苦しい時は手抜きで誤魔化し、その分をなんとか理由付けしてしまうのが手っ取り早い。しかし、それを余り頻発しては見透かされてしまう。作品のクオリティを下げずに作業を減少させる事が出来るなら、それが一番の手段である。
 最初からその省力化を目的としていたかどうかは分からないが、劇中の影絵劇は省力化しておきながら、アングラ芝居の匂いをさせた斬新さにより作品のクオリティを下げてはいない。しかも、この絵は影絵であるのでリップシンクロしていなくても問題ないのでアドリブも可能である。普通はセリフの時間配分があるので、アフレコ時にアドリブを入れるのは難しい。時間を変えずに内容を変えるのが関の山だった。しかし、この手法によりタイミング合わせは自由が効くので、演技の自由度が上がったのだ。
 「ウゴウゴルーガ」でも見られたが、アニメ技術的には低レベルであっても作品として面白ければ、見ているほうは問題ない。逆に言えばどんな高レベルの技術を使っていても作品がつまらなければ駄作と言われてしまうのだ。

3.放送コード

 今日、中学生の援助交際が問題になり、小学生で初潮を迎える女の子も多い時勢である。(その一方で初婚年齢は上がっているが)もはや、性行為に対する個人差は歴然としており、昔のように画一化した年齢区分を望むのは難しい。
 つまり、仲間外れ恐怖症から格好は同じになったが、実年齢に対する経験値は大きく差が出る結果となったのだ。こうなってくると教育する側は注意せねばならない。画一的な生活指導では問題に対処できないからだ。家庭でも、学校でも、その子の実状に合わせて対応しなければいけない。
 さて、所謂自主規制で「子供向け番組では性行為のシーンを見せない」というのがある。しかし、実際には知識として知っている、あるいは体験しているような年齢に対してそんな規制が意味を為しているのだろうか。そういった想いがあったかどうかは知らないが、元から小学校低学年以下には受けないと思われる作品である「少女革命ウテナ」で一つの実験が行われた。大人になら一発で分かってしまうのだが「兄妹の近親姦」「遊びの延長としての性行為」を画面表現で誤魔化す事により放送してしまったのだ。確かに、違うと言い切れなくも無いだろうが、どう考えても確信犯である。
 こうして、表現というものが直接的描写だけでは無い事を知らしめた名シーンとも言える訳だが、美術的には大した事は無い。公園に何故かある、ブロンズの裸の少女像の方がデッサンも優れているし、価値も高い。しかし、そういう問題では無い。実際に公園に本物の裸の少女(子供では無い)がいる訳など無いが、刹那的な性行為に耽る中学生は実在する。実際に子供社会にある問題を間接的表現とは言えここまで明示してしまった作品は珍しい。しかも、説教ドラマのように問題が解決するでも無く、これが現実だ、と言わんばかりにただそこにある。
 実はフィクションのようで、現実のオマージュでもある。教育関係者は心して欲しい。放送規制云々の前に、教育に欠けているものを取り戻してこそ自責を全うしていると言えるのだ。

4.長谷川慎也のパワー

 「美少女戦士セーラームーンS」で頭角を顕し、「新世紀エヴァンゲリオン」でも画面のクオリティアップに大きく貢献した、アニメーターの長谷川慎也氏が「少女革命ウテナ」に参加している。
 さて、実のところ彼のキャラクターデザインに対して放映当初から一部アニメファンに拒否反応があり、個人的にも好きになれない。それでも「ウテナ」を私は続けて見ている。なぜなら、彼の絵の魅力というのは可愛さや美しさでは無く、その動作にあると思っているからだ。アニメがあくまでも絵である良い点として、表現を大袈裟に出来るというのがあるが、彼はそれを時間的空間的に活用する事が出来る。(参考:ウテナが決闘シーンで正面から剣を突き刺してくるシーン)
 以下、続きます。