ギャルゲー論

ギャルゲー論


ギャルゲー、又は見捨てられた「生身」


・序章

 ここでの主な省略語を示しておきます。辞書に載っていない語句が多いので、正しい国語からは掛け離れてますね。
 ギャルゲー:アニメ絵の美少女が出てくる、それを売りにしたゲーム。恋愛シュミレーションが多い。
 仮想人格:ゲーム等の登場人物に人格、性格を設定してあたかも実存するかに思わせる手法、またはその設定。

・第1章「恋愛シュミレーションと現実の乖離(かいり)」

 ひとくちにギャルゲーと言ってもジャンルは様々だが、その中でも特に恋愛シュミレーションと称されるものについて、その現実性を考察してみる。
 シュミレーションというのは「現実の現象を仮想空間等で仮に実行してみる」といったような意味合いである。つまり、恋愛シュミレーションは恋愛をゲーム中で仮想体験するゲームである。ただし、ゲームであるからには現実世界のすべての要因を持ち込むことは不可能である。勿論、これらのシュミレーションは仮想空間の「現実」を構成するパラメータが多いほど、それを使った計算式が正しいほど現実に近くなる。
 しかし、あくまでもゲームである以上、逆に現実的でない部分を挿入しなければ面白くならない。そう、現実とは思ったより平穏なものなのだ。実際の恋愛とは、強力な思い込みによって、平凡な相手との平凡な関係を大袈裟に受け止めて成り立っている。
 こうしてみるとゲームと現実は乖離しているが、実際の恋愛現象と実際の恋愛認識にも一致性は乏しいのではないだろうか。こうなるとゲーム中の恋愛とは、恋愛認識に近く作られている事が「リアルである」と判断されるのであって、当然、現実とは 乖離してしまう。
 こうしてみると、この問題はゲームに限らず発生するので、大きな問題では無いと結論付けられる。

・第2章「見捨てられた生身」

 さて、一方こちらは大問題をテーマに扱っている。結論から先に言うと「恋愛シュミレーションゲームをプレイする若い男性(女性もいるが)は、対人間の恋愛が思い込みによって成り立っていることを知ってしまい、同じ幻想であれば生身よりも仮想人格の方を選択してしまう」という事だ。
 ゲーム中の登場人物の人格、性格が明示されているばあい、あたかも現実にその人物が存在するかもごとくに感じられることがある。確かに、芸能人に対して我々一般人はメディアを通しての仮想人格で認識している。同様に恋人に対しても自分の中にある仮想人格で相手を認識しているので、相手に対する好意がその仮想人格の質を左右する。
 では、同じ幻想なら何故生身の方が選択されないのだろうか。その答えは多岐にわたるのだが、その最大要因を取り上げる。それは、現実の女性があまりにもマニュアル的な関係を男性に求めるが故、自己喪失を嫌うタイプの男性に対しては魅力を提示できないからだ。
 生身であるメリットとしては「性行為が可能」「社会的体面が保てる」「種の保存本能に即している」といった事があるが勿論デメリットもあり「金銭的時間的労力を強いられる」「別れた場合、社会的体面は失墜する」等が挙げられる。反対に言えば、仮想人格相手であれば「金銭的時間的労力は思った程で無い」「自分の都合を優先できる」というメリットがあり、「所詮は機械相手」「社会的落伍者の烙印を押される」等のデメリットがある。
 こうして比較した時に生身の側が負ける事がある訳だが、やはりそれは生身の努力不足と、仮想人格の進歩による。現代日本の縮図ではないだろうか。
 

・第3章「ギャルゲー制作の悲喜」

 こうして固定ユーザーを掴んだギャルゲーだが、果たして本当に美味しい市場であるのだろうか。その答えは「否」である。なぜなら、ギャルゲーは普通のゲーム以上にユーザーの好みがうるさいからだ。キャラクターさえ可愛ければそこそこのヒットは望めるが、ツボを押さえていなければ、そこで終わりであり、プロモーションに失敗すればヒットどころか三振もある。
 また、あまりにギャルの線で押すと、一般ユーザーがそれを嫌う為、結果的に販売成績が下がってしまう。これは、ゲーム購入資金を親に頼らざるを得ない若年層がいる事にも起因する。いくら「6ポケット」と言えど母親が子供に「女の観点からの健全」を求めるのが普通である。その手のゲームは選択肢から排除されるだろう。
 こうしてみると、元から良いゲームに程々のギャルゲー要素を混入させる手法が安全策ではある。しかし、この手法は当然ながらより多くの資金の投入を余儀なくされる。良いゲームといだけで、それは当然、ユーザーの身になった企画、しっかり組まれたプログラム、長時間のテスト等を意味しており、質を向上するには時間を掛ける事が最も必要である。
 ここで問題になるのは時間の経過とともに世の中の流行が変化し、技術が進歩してしまう点にある。企画を立てた段階では斬新な事も、先行されてしまえば陳腐化してしまい、技術革新によりプラットフォームそのものが忘却の彼方に葬り去られる危険性すらある。
 さて、ここで以上の事が何かに似ていないだろうか。そう、ゲーム制作は実は子育てに似ている(それ以外の物造りでも多かれ少なかれその要素はあるが)のだ。親はやはり、世間に通用する子を育てようとするが、我が子の事であるのでつい甘やかして出来が悪くなったり、産まれた時の教育方針が成人した時には時代遅れになったり、良かれと思った事が仇になってしまう事もある。勿論、放任したりすれば結果は天に任せるしか無い。
 日本の若い親達に、ギャルゲーの善し悪しから子育てとは何が要であるのかを学び取って欲しい。自分の親戚と狭い近所の了見だけで価値観を左右されてしまっては、育てられる子供が可哀相である。

・第4章「あなたは仮想人格に勝てるか」

 勝ったから幸せになれるという保証はないが、とにかく仮想人格と対決してみよう。もし新たな発見があれば、あなたの人生の大きなターニングポイントになるかも知れない。
 まず、「あなたは仮想人格より性格が優れているか」
 これは難しい。何故なら仮想人格はいくらでも理想に近付ける事が可能であるが、生身の人間はそうはいかない。まぁ、完全無欠ではないところが人間らしさではあるのだが、単純に比較するなら、あなたの負けは明らかである。もっとも、性格に優劣をつけるのは難しいので、単に性格の一部を数値化するに過ぎない。
 次に、「あなたは豊穣な人間関係を維持できるか」
 相手と継続して付き合っていくとして、その関係を豊穣な状態に保てるかどうかであるが、これは努力次第である。これは何も「喧嘩をしてはいけない」というのではなく、相手を理解しようとする努力があれば、問題ない。一方、機械にとって人間の行為を理解しようとする事は難しい。  最後に、「あなたは唯一性を持っているか」
 仮想人格はユニーク(単一)ではなく、コピー可能である。生身のあなたは世界に一人だけであるので、村社会的迎合を回避し得れば存在の単一性を証明できる。逆に言えば大衆には個が無い。誰が増えようが欠けようが同じである。無理矢理番号を割り振ってみたとしても、それに意味を見出すことは不可能だろう。クローン人間を造って元の人間とまったく同じにするには、元の人間から個性を奪い去るしか無い。逆に仮想人格はたった一つの機械しか無くても、製作、再現可能であれば単一性は無い。
 以上の事から、現実問題として「仮想人格に劣る生身」が存在する事実を認識して頂けただろうか。

第5章「ギャルゲーと精神安定」

 こうして考察すると、単に旧来の社会的秩序を破壊する兵器でしか無いようにも見えるギャルゲーだが、現代社会に貢献している点も見逃せない。それはストレスに対する癒しである。
 人間の行動は、本能だけでなく体験学習によるものもある。適度に成功体験と失敗体験をしているのがバランスが良いのだが、そうもいくまい。例えば、青年時代に恋愛関係で失敗経験を重ねていると「自分は誰からも必要とされていない」という妄想に取り付かれてしまい、挙げ句自殺してしまう場合すらある。実際には人類は数が多いので「誰からも」かどうかは一生掛けても検証できないだろう。しかし、羹に懲りて膾を吹くの如く、臆病になってしまうの方が普通である。学習とはそういうものだ。逆に言えば恋愛関係で成功経験のみを重ねていると、愛されているのが当然という 認識が出来てしまい、駄々っ子のような傲慢な人間になるだろう。場合によっては失愛恐怖から、他者依存性の高いタイプになるかも知れない。どちらにせよ、余り健全で豊穣な人間関係を築けるとは思えない。
 さて、ギャルゲーだが、成功失敗ともに様々なパターンを体験することが出来る。恋愛相手も年上年下多種多様である為、現実の自分のコミュニティが狭い場合には存在しないような相手を知ることも出来る。また、程好いストレスで成功を体験させる為、現実社会での失敗による精神的ダメージを治癒する効果がある。心理学の基本であるが、逃避行動等、マイナス方向に対処してしまうよりは、次に成功体験をするというプラス方向の対処が望ましい。しかし、実際に平成の社会システムとしては他人、特に異性を拒否する事は犯罪行為ではないと規定されているので、恋愛における失敗体験の連続が発生してしまうのは避けられない。過去あったが、親が決めた見合い相手を拒否できなかったような時代では、このような問題は無いが、人間性以前に順応力が問われてしまうという方向であった。
 ともかく、ある青年が特定または複数の原因で連続的に失敗体験をした場合、そこから学習する事は「何をやっても駄目だ」となってしまう。成功体験が入る場合はその経験を「●●すればうまくいく」と汎用化してしまう。実際にはそんな事は次回の状況によって全く変わってくる。最近のギャルゲーは出来が良いので、こういった要素まで盛り込まれている事もある。つまり、ある人物に対する好感度の状態によってその時どうすれば良い印象を持たれるかが変化するのである。
 成功者に言わせれば「所詮は逃避」に過ぎないとしても、ギャルゲーは仮想現実の成功体験により犯罪や自殺や国外逃亡を防止する漢方薬である。適量を用いれば効果はてき面であり、カウンセリング費用も格安である。盗んだバイクで走り出すような反抗者やチベット行って仏門に入ってしまうような世捨人にも是非一度ギャルゲーを試みて頂きたい。

第6章「総論」

 社会はギャルゲーを必要としている。
 必要が市場を生むのであって、それがどういった種類の「必要」であるかはともかくとして、ギャルゲーは市場あればこそここまで存続できたのである。
 こういった変化が何故起きたのかというのは、宗教、社会の流れ、諸外国との関係、時代的背景等複雑に要因が絡み合っているので特定の事柄のみを取り上げてみても根本が見えない恐れがある。逆に、現代日本社会で何故ギャルゲーが必要とされているかと言うと「家柄の消失による年配者の結婚相手決定力の衰退」「社会保障、裁判の整備による離婚後の生活の安定化」「人口の増加による人間同士の忌避」「経済成長による若者の増長」等が要因として挙げられるが、どれもが決定的ではないように見える。ムーブメントというのは意外な所にも因子があって発生するのであって、単純な連鎖ではその一端を分析したに過ぎない。
 今後、いつまでこの状況が継続されるかも分からないが、需要があるならば例え違法であろうとも供給しようとする者が現れるのが古来からの系譜である。
 ただ、ギャルゲーの需要がある限り、社会機構は誰かに犠牲を強いていると断言して良いだろう。

・終章

 このギャルゲー論は、沖右衛門氏による私信の中から「ポルノグラフィーによる豊穣な人間関係の搾取」についての返信を元に再構成した。インスピレーションを与えれくれた氏に感謝を捧げる。
 蛇足ながら、作成中に"たむよう"氏が書いた突っ込みを残しておく「青年時代に恋愛関係で気持ちいいことをしていないとこれがまたつらいことになっちゃったりして(笑)ギャルゲーってのはこれがまたズリねたとしてはなかなか」(以下途切れている。茶々を入れるにしても、是非とも最後までしっかり書いて欲しい)

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