幻想付加価値商品の功罪  「電池レンタル・グラビティ」なんちゃって。

キャラクターグッズ論

1.メディアミックス展開とキャラクターの歴史

 メディアミックス展開を本当に意図的に実施しているのは昭和の終わり頃からだろうか。一つのキャラクターを売り出す為に作品を複数のメディアで発信し、ブームを形成し、キャラクターグッズで資金回収するという阿漕な手法の事だが、元はTV番組の冠スポンサーとタイアップした商品を番組内で好意的に登場させる程度だったが、今はもう違う。テレビ、ラジオ、漫画、小説等を立ち上げ、全部が失敗したら小豆相場も真っ青な負債総額になるであろう作戦が展開されている。

2.偉大なる実験の物語

 そのような状況下、ついに究極とも言えるメディア展開手法を試みようとする一団が現れた。「マーカス」によるプロジェクト「センチメンタル・グラフティ」である。これは、作品に先立ってキャラクターを強固に確立し、まずブームを形成し、それによって作品を作り出そうという前代未聞の発想である。(近年では、それを夢見た者も多いが、それらは失敗に終わっていた。)
 このプロジェクトのスタートは上々である。ゲーム雑誌において製作進捗やキャラクターグッズ情報を小出しにして、あたかもゲームが面白いかのような印象を与えて多くのファンを作り、殆ど絵しか入っていないプロパガンダソフトである「ファーストウィンドウ」の爆発的人気を呼んだ。その人気に支えられてCDドラマや小説にも展開し、順風満帆であった。しかし、思わぬ所に落とし穴は存在した。肝心のメインストーリーであるソフト本体が無いまま「素晴らしい」イメージが形成されてしまった為、本体は必然的に素晴らしくなくてはならなくなってしまった。
 「素晴らしいソフトを作る」口で言うのは簡単だが、実現するのは難しい。資金はあっても時間とセンスは金では買えないのだ。取り敢えず人件費は掛けられるので、オープニングアニメを止め絵では無く動画枚数を増やしてみすぼらしくは無くしたが、それもプラットフォームの性能に足を引かれて色数を減らさざるを得ない事になってしまった。更に、システムで一番金の掛け方が難しいシナリオで躓いた。シナリオは一人で書けば整合性が取り易いが品質は限界がある、大勢で書いた方が切磋琢磨出来るが優秀なシナリオディレクターが必要になる。どうやら、ゲームシステム仕様を決める段階でゲームとは何かを知らない者が強く関与したようで、どちらの手法であっても難しい、マルチシナリオ進行、相互人物無関係、時間リンクが採用されてしまった。一見するとこの方が楽そうに思えるが、それは素人考えである。同時進行する物語がバラバラに存在すると矛盾や破綻を来たした時に収拾を付けるべきポイントが分かりづらくなってしまうからだ。かくして、「暗黒太極拳」の異名をとる不気味なオープニングアニメのある、毎週日本全国を渡り歩いているくせに電話は自宅からしか掛けない謎の高校生が主人公の馬鹿ゲームは完成した。発売2週目にして定価から半額に落ちた、前代未聞のソフトの顛末記である。

3.キャラ立ち

 では一体、なぜこれだけ大勢がこの幻想に付き合ったのだろうか。まぁ、プレステ陣営に対してソフトで話題に欠けるサターン陣営の戦略もあるが、それだけでは無いのは確かである。それが「キャラ立ち」である。
 そもそも、単なる絵にそんなにまで人気が出るかというと、これは自ずから限界があって、そこに声や性格等の付加があって初めてキャラクターが「立つ」のである。(更に上手く事が運ぶと「歩く」場合もある)
 画一的指導の学校教育によって、今や、子供たちの周りには魅力的な奴は殆どいない。いるのは自分のクローンたる「友達」と、サラリーマンと区別の付かない「先生」、自分の灰色の未来像「親」だけである。それに反発して逆方向に暴走するまでは愚かでは無いが故に彼らは本物の個性に憧れている。実社会ではゲームキャラのような個性のある奴ははみ出し者なのだ。自分も個性が大切だと思っていながら友達を失う事に対する恐怖から結局同じにしかなれない、その葛藤が個性的キャラへの人気になっている。
 逆に言えば、キャラクターへの設定さえしっかりしていれば、例え髪型や小道具でしか区別が付かなくても可愛ければかまわないのが実状だ。意外と顔に関しては際立って個性が無くても問題が無い。国民的美少女がもてはやされる芸能界とは異なり、均整さえとれていれば日本人離れしていなくても良いのだ。
 ギャルゲーに魅せられた野郎の周囲には、ポケモンを可愛いと言い、キムタクを格好良いという「同じタイプ」の女性しか居ない。英会話が出来ようが、ガーデニングに凝っていようがそんなものは無意味なカルチャースクール的付け焼き刃素養でしか無い事を見抜いてしまっている。そういった意味でスポーツ選手などは基本的社会常識に欠ける恐れは有るが個性的である率は高い。尤も、一歩間違えば単なる無個性な上に常識知らずの馬鹿という最悪な人格という例も見られる。(無個性だろうが、犯罪者の方がその人物を説明するのは楽だが)

4.雑誌メディアの功罪

 ゲームに限らず、商品が出る前からメディアで褒めちぎっておく事により商品イメージを向上させるという手法が最近よく使われている。
 「宣伝」という行為自体が若干詐欺的要素が有るにせよ、ともかくゲーム雑誌には提灯記事が多すぎる。雑誌に広告を掲載するスポンサーの商品をレビューするのであるから余り欠点を論(あげつら)う訳にもいかないのは承知できるが、駄作良作の評価を引っくり返すような真似は断じて許されない。確かに、メーカーに良い顔をしておけば他誌に先駆けた情報が入手できるかも知れないが、記事というのは雑誌の「魂」である。そこだけはどんな事があっても譲ってはいけない。(扱いの大小などは、大人の事情により仕方ない場合もあろう)
 さて、「センチメンタルグラフティ」だが、当然ながら雑誌への工作も完璧だったようで、ゲーム雑誌には発売前から連載記事が載るという状況であった。これにより認知度は大いに向上したと推測できる。よって、「センチメンタルグラフティ」は完成前から傑作でなければならないという厳しいハードルを自らに科す羽目に陥ったとも言える。「大勢が知っている=素晴らしい」という一般世間の常識がゲームの世界に持ち込まれてしまうのは、好むと好まざるに関わらずパブリッシングによる結果である。少数のコアなゲーマーの常識は、当然違っていて、「駄作だが部分的に素晴らしい」「皆が知っているが駄作」「殆ど知られていないが傑作」等といった、その世界にしか流通しない情報が元になっている。実はこの「一般」「コア」のボーダーラインが重要なポイントである。
 一般向けの良いゲームというのは、見た目の造りが丁寧で、話が無意味なまでに壮大で、程良く隠しイベントやアイテムがあって、主人公が格好よければ、ゲーム性が 皆無だろうが、著作権ギリギリのパクリがあっても関係ない。しかし、「センチメンタルグラフティ」は、それを満たしてはいない。
 有名な商品は良い商品でなくてはならない。その重い十字架を好んで背負ったからには、キリストも弟子達もパリサイ人も、磔から目を逸らさないで欲しい。

5.グッズとクオリティ

 ここで言うクオリティは2つある。一つは「その商品の工業的出来栄え」であり、もう一つは「キャラクターにどれだけ忠実か」である。
 前者に付いては説明するに相応しい人が世界に誇る日本工業界には何人もいらっしゃるので、私如きがでしゃばるのは気が引ける。ともかく「安くて良いもの」を作るのは意外と難しいという事だけは分かって欲しい。つまり、子供が買えるような値段のキャラクターグッズであっても、そこそこの品質でなければいけない。使っていてすぐ壊れるようではキャラクターのイメージをも台無しにしてしまう危険がある。
 後者に付いては言葉での説明が難しい。具体例を挙げるなら「キャラクターの目の色が違ったりしてはいけない」が良いだろうか。つまり、そのキャラクターを工業的に生産できるようにデフォルメしたり簡略化する過程で重要な要素が間違ってはいけないのである。そこで失敗しているキャラクターグッズの扱いは贋物以下である。勿論、キャラクターによっては他の要素が重要で、目の色は二の次かも知れないのだ。正しく簡略化するには、そのキャラクターが何によって他との違いを認識されているのかを見極めなければならない。夜店で売っているような贋物は、案の定子供騙しのレベルでしかない。魂が入っていないのである。逆に言えば、魂さえ入っていればかなりデフォルメしても、マニアでさえそのキャラクターであると認識してくれるのである。この差は大きい。
 さて、キャラクターに忠実である為にデフォルメをしないとなるとどうなるのか。すると、より細部が本物でなければならず、これは当然コストの上昇に直結する。色数は少ない方が安いし、形状が複雑すぎると金型が作れない羽目になる。細い個所は折れやすいし、かさばってしまう。だから、昔のキャラクターグッズを見ると誤魔化しのオンパレードか、造りに合わせたキャラクター設定であるかのどちらかが殆どだろう。
 こういった顧客の厳しい要求と製造メーカーの絶えざる工夫が有ってこそ今日の製造技術があるのだ。正に「必要は発明の母」である。

6.キャラクターグッズの効用

 純粋に物理的に見るなら、キャラクターグッズの意味は無い。しかし、古来より人類はより美しい絵画や彫刻を求めた。そこにキャラクターグッズの本質を見る事が出来る。それは、所有欲の充足である。
 衣食住が満たされている場合、人間の欲求は次の段階へ進行する。最終的にこれらは自己実現の欲求へ昇華すると言われているが、その過程に所有欲があると考えられる。これは、より素晴らしい物を、より多く所有したいと願う心で、衣食住の所有と異なり限度が無い。さて、キャラクターグッズは現代人の所有欲を満たすのに非常に適しており、数量コントロールにより希少性を出した上に、芸術品より遥かに廉価で入手できる。彼等が衣食住で完全に満たされている訳では無いだろうが、行き詰まった欲求の矛先であるのは疑いようが無い。
 また、キャラクターグッズの心理的意味にも注目しなければならない。すなわち、日常的に目にしたり使用する物が好きな絵柄だったりすると人間の心は和むのである(子供を勉強机に向かわせる為に、教育ママ達がキャラクター付きの学習机を買い与えるのは、この効果を悪用したものと言える)。今、都会では心の和む風景は殆ど目にする事が出来ない。植物があっても所詮は不自然に管理された緑でしかなかったりする。そのような環境下での心のオアシスとしてのキャラクターグッズなのである。アイドルのポスターもこれと何ら変わり無い。
 また、心理的効果を掘り下げると、所有欲だけでなく一体感を得られるという事が分かっている。人間は物理的にはどう足掻いても個体の生物である(群体では無い)。よって、心だけでも他者と同化したいというのがその欲求であり、欲望である。奇異に思える、死者の肉を食べるような一部の民族の風習も、これと同列に捉える事が出来る。人の心は脆く、やはり人類補完計画は正しいのかと思わせる程である。特に赤ん坊は胎内では母親という他者を所有し一体化していたのに、誕生によって不安な世界で生きていかなければならない。この遠い記憶が残ってしまっているとも考えられる。
 精神的に問題を抱えるよりも、キャラクターグッズだろうが宗教だろうが、それにすがって精神的に安定した状態の方が健康には良い事は間違いない。ただし、社会的に問題が無いかというと、当然問題があるだろう。一つの問題を解決するというのは大抵の場合、問題自体を変化させて見えなくしてしまうだけなのだから。

7.まとめ

 大分脱線が多かったが、取り敢えず今回はこれでまとめてみる。
 ギャラクターグッズの商売はは宗教産業である。信仰が無ければその幻想付加価値は全く生まれないのだ。鰯の頭も信心から。人は本能的な価値観の他に生活環境によって刷り込まれた価値観を持っている。どちらが正しいかというのは不毛な議論だ。