06/04
お題目:亜生命戦争異聞#7
それから全ての報告書を提出するまでに、数日経ったのか、数週間経ったのか、古池にはさっぱり分からなくなっていた。
古池の助手達にしてもおなじようなもので、毎日家に帰って風呂に入らなければ気が済まないという楊を除いて、研究室にいる時間の方が遥かに長い状態が延々と続いていた。
その当然の帰結として、古池が全ての報告書の提出を済ませた頃には、研究室の中には一部は仮眠の為の敷物と化したプリント資料の山と乱雑にディスクが突っ込まれた箱が散乱、毎食の弁当や飲料類の空き容器が絶妙なアクセントを加えている、といった状態になっていた。
もちろん楊はこの状態にかなりの抵抗を感じたらしく、暇を見つけては掃除してはいたのだが、いかんせん楊自身もシミュレーション・プログラムの作成などを任されていたため、研究室を全て整理する程の時間を探し出すことは無理だったらしい。結局、研究室は斯くの如しとなってしまった訳である。
「おーい、古ち……うわ!」
ノックも抜きに古池の研究室の扉を開けたローレクトは、その室内の惨状よりも、臭いに驚いた。
汗臭いと言うか、男臭いと言うか、生臭いと言うか、腐敗臭と言うか。その臭いを上から覆い隠すような強烈な洗浄剤の、とにかく、塩素のような、アンモニアのような目にしみる臭いが充満している。
化学実験の最中とも思えたが、マイクロマシンやナノマシンの設計試作が主な仕事となっている古池の研究室でそんな事がある訳がない。
ローレクトはおそるおそる研究室の中を覗き込む。
中では、古池の助手らがマスクやら掃除機やらを装備して部屋の清掃に当っていが、肝心の古池の姿は見あたらなかった。
古池の監視役とも言える楊もいない。
ローレクトは仕方無しに手近にいた助手に聞く。
「オーバル君だったっけ、古池の居場所、知らんかね?楊ちゃんでもいいよ。」
不要になったプリント資料をリサイクルボックスに詰め込んでいたその助手、オーバルは、首を横に振った。
「古池(せんせい)、今日来た?」オーバルは、研究室の他の助手にそう呼びかけるが、返事がない。
振り向いて一人の助手を見るが、何日前のものか分からない飲み止しのペットボトルや缶ジュースを洗面台に捨てていたその助手は、両手のひらを上に向ける。
「今日はまだ研究室の方には来てないみたいです。楊さんは…今日は公休日(おやすみ)取ってますね。僕ら、楊さんに言われているんですよ『あんたらが散らかしたんだから、今日のうちにちゃんと掃除しときなさいよ』って。」
ローレクトは苦笑すると、古池に『自分の研究室に来て欲しい』と伝言を頼むと去っていった。
掃除は助手らの手によって黙々と続けられ、昼の声が聞こえる頃、次の来訪者が現れた。
ダンツ委員と、古池の直接の上司にあたる委員会メカトロ部門の顧問、コスナー博士だった。
コスナーは、ダンツの頭が肩に来るほどの長身で、ローレクトよりも更に一回り大きい。
身長は180を優に越えるが、がっしりした体格と堂々とした立ち振舞いのおかげで、見た目は2メートルを越える巨体に見える。
二人が訪れる頃には、室内の臭いは、窓を開けて追い出したり、消臭スプレーでごまかしたりする事はできたが、分別したゴミは、コンテナボックスに詰め込まれ、研究室の片隅に山積みされている。
「あー、古池君は、在室かね?」
ゴミの山に、あからさまに怪訝な顔をしてコスナーが訪ねる。
「いえ。古池博士(せんせい)は、今日はまだ研究室(こちら)の方にはいらっしゃっていませんが……報告書の方に何か問題でもあったのでしょうか?」
コスナーは懐から眼鏡を取り出して、手に持っていた紙を見る。
「いいや、逆でね。報告書が委員会の方で無事受理されたから、その事を伝えに来たんだ。」
「ついでに、一緒に昼食でも、と思ってね。」ダンツが脇から首を出して、コスナーの言葉を継ぐ。
二人は、間に合うようなら、と古池に食堂の方に来るように伝言を頼む。
助手は丁重に承ると、研究室の壁にある、連絡用のホワイトボードにその旨を書き込んだ。
それから数時間後、今度は休むと言っていたはずの楊がやってきた。
日は少しづつ長くなってきたとはいえ、いよいよ本格的になってきた寒さを肌身で感じているようで、桃色と白の毛糸で編まれた大きなミトンの様な手袋をし、同じ色の毛糸のマフラーで首をぐるぐる巻きにしている。
大きな箱の入った手提げバッグを手にしている。
楊は、研究室内を見渡すと、分厚いコートを衣紋掛けに掛ける。
「随分綺麗になったじゃないの。」
満足そうに頷いた楊は、助手らを労うためにお茶の準備を始める。手提げバッグの箱の中には、全員分の手作りのクッキーが入っていた。
モップで床を拭いていたオーバルが、楊にロブとダンツ委員、コスナー博士の来訪を告げた。
「博士(せんせい)、今日は公休日(おやすみ)じゃなかったと思うんだけど」楊はため息を一つ。
「まあ、連絡用のボードには書いてあるし、私から博士(せんせい)にメール打っとくから大丈夫よ。」
そう言って、カンファレンスや打ち合わせのときに使う大きな机の上にクッキーとお茶を並べた。
研究室の大掃除も一段落し、古池以外の全員が揃う。
それぞれが、大きさも色も材質も個性豊かな自分のカップに、なみなみと注がれた紅茶をそろそろとすする。
一杯目のお茶を飲み干す頃、研究室の扉がノックされた。
「どうぞー」
助手の一人が答えると、扉の向うからフレッドが顔を出した。
「あのー、古池博士(せんせい)いますか?」
「今日は来てませんよ。」
そうですか、と、フレッドが首を引っ込めようとしたところを楊が引き止めた。
「お茶、飲んで行きません?」
フレッドは少し躊躇したが、顔見知りの他の助手が手招きしているのを見ると、笑って研究室の中に入ってきた。
「んじゃ、遠慮なく」
「お前は、お茶だけ。クッキーはやらないぞ」
オーバルが真ん中の大きな皿に並べられたクッキーをほおばると、研究室の中の助手全員が笑った。
夜、研究棟の廊下を歩く古池の姿があった。
ここ数カ月の疲れが一気に出たのか、今日は夜になるまで眠りこけていたのだ。
起きたときは、疲れを取るためにも早く寝ようと考えていたのに、結局研究室に足を運んでしまったのだ。
扉の前で、ポケットに手を突っ込んで鍵を探す。
「こりゃ、ワカーホリックかな?」
そうは言ってみたものの、古池は自分がそこまで仕事熱心だとはとうてい考えられなかった。
研究室の鍵を開けると、照明をつける。
昨日までのゴミ溜めの様な様相が嘘のように綺麗になっている。
汚いのは嫌だが、これだけ綺麗だと何となく落ち着かない。
古池は端末の電源を入れる。
ふと見ると、モニタスクリーンの前に、小さな皿に盛られたクッキーと古池のコーヒーカップ(これもすっかり綺麗になっていた)そして保温ポットが置いてある。
皿の下には二つに折られたメモ用紙が挟まっていた。
丁寧な書体で書かれたメモ。楊の字だ。
『連絡はメールとホワイトボード。クッキーは今日中に食べてください。ヴェルディア・T・楊』
おやおや、公休日(やすみ)を取ったはずなのに。
ワーカーホリックに罹っているのは、自分だけではないらしい。
保温ポットを開けると、カップに注ぐ。
ポットの中には、コーヒーが入っていた。
コーヒー好きの古池の事を考えた、楊らしい配慮だ。
これで晩酌はできなくなったな。
そんな事を考えつつ、クッキーを一枚。
古池は、久方振りに手に入れたこの夜の時間をゆっくりと楽しむことに決めた。
では、次回の更新をお楽しみに。
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